「民主主義の使い方」とか 3
我ながらクドいと思いながらも市長のブログの意味がよくわからんので、もう一回よく読んでみる。
・「自分たちの案が認められないなら市長リコールだ」
市長はこの「市長リコール」をまた別な言い方で表現している。
・「他の多くの市民の意思を問う機会自体を奪うに等しいもので」
・「民主主義からの逸脱ではないか」
市長の言うところの「市長リコール」はこの2点を意味し、この2点をもって
「自分(たち)VS市長、という構図はあっても、自分(たち)以外の市民のことは視野に入っていません。」
と、こう結論付けている。
そのあとこのようにブログは続く。
1・市民のなかには実に多様な考えがあり、
2・一つの理念やスローガンでくくれるものではありませんし、
3・行政への不満・反発でまとまっているわけでもありません。
この1~3は、以下の☆文の「その意思や考え」のことを指す。
☆「『その意思や考え』も尊重しながら、どう次のステップに移っていくのか。」
この1~3と☆文の流れの意味は、
『市民はそれぞれが勝手に「多様な考え」を持っていればいいんです』ということと、
そういう市民がいることを踏まえて、行政は取り組まなければならないこと。
このように市長は書いている。
その市民の「多様な考え」はどこに向けられているか?
それは市長に向かっているものではないか?
それを構図と言う言い方で示せば、「市民(個人や団体) VS 市長」となるんじゃないか?
これ違うかね?
市民は自分の考えを市長に言いたいんだからさ、市民の目線は市長に向けられるはずだろう?
まさに、「市民(個人や団体) VS 市長」 でしょうよ。
(疑問符ばかりになってしまった)
で、「市民」というくくりには当然「会」も含まれている。
だから「自分(たち)VS市長、という構図」(この文での「自分(たち)」は「会」のこと)は、何も特別なことではない。
「自分(たち)」=「会」=「市民」なんだからさ。「会」にだけその構図とやらをことさら強調するのはおかしいでしょ?
「会」は「市民ではない」とでも言うのかね、市長は。
そしてこの文、「自分(たち)以外の市民のことは視野に入っていません。」。
ここで思い出したいのは少し前の「1~3」と「☆」。
市長は市民に「まとまること」を求めてはいない。「『その意思や考え』も尊重しながら」と言っている。
市民はまとまる必要はないんだから、「自分(たち)以外の市民のことは視野に入っていません。」という状態でもいいはずだ。
なのになぜ「自分(たち)以外の市民のことは視野に入っていません。」(この文での「自分(たち)」は「会」のこと)と、ことさら「会」に市民としてのまとまりが欠けている風に非難するのか。
「自分(たち)」=「会」=「市民」なんだからさ。「会」だけ非難するのは矛盾してるでしょ?
「会」は「市民ではない」とでも言うのかね、市長は。
このように書いてみて気づくのは、市長の視点では「会」は「市民」ではない、という認識だ。
市長もそうだし一部の議員もそうだが、住民投票の結果が出た時「選択肢1を選んだ人の意思も尊重して」と言っていた。
「選択肢1を選んだ人の意思も尊重して」の根拠は、2を選んだのは市民、1を選んだのも市民、どちらも「市民」だからだ。
くどいけれどももう一度書く。
どちらも「市民」だからだ。
ところが市長ときたら、住民投票で負けた時は自分を支持した人たちを「市民」として尊重しろと言い、市長リコールで自分と敵対する立場の人たちは「市民ではない」と言う。
この根拠は? 市長の主観、としか言いようがないだろう。
どちらも「市民」じゃないのか?
前々回の私のブログで、市長リコールを求めた根拠において市長と白井議員とで主張が異なることを書いた。
そして今回、「市民」の範囲は市長の主観でコロコロ変わることを書いた。
なんかね、おかしいよなぁ。
・「自分たちの案が認められないなら市長リコールだ」
市長はこの「市長リコール」をまた別な言い方で表現している。
・「他の多くの市民の意思を問う機会自体を奪うに等しいもので」
・「民主主義からの逸脱ではないか」
市長の言うところの「市長リコール」はこの2点を意味し、この2点をもって
「自分(たち)VS市長、という構図はあっても、自分(たち)以外の市民のことは視野に入っていません。」
と、こう結論付けている。
そのあとこのようにブログは続く。
1・市民のなかには実に多様な考えがあり、
2・一つの理念やスローガンでくくれるものではありませんし、
3・行政への不満・反発でまとまっているわけでもありません。
この1~3は、以下の☆文の「その意思や考え」のことを指す。
☆「『その意思や考え』も尊重しながら、どう次のステップに移っていくのか。」
この1~3と☆文の流れの意味は、
『市民はそれぞれが勝手に「多様な考え」を持っていればいいんです』ということと、
そういう市民がいることを踏まえて、行政は取り組まなければならないこと。
このように市長は書いている。
その市民の「多様な考え」はどこに向けられているか?
それは市長に向かっているものではないか?
それを構図と言う言い方で示せば、「市民(個人や団体) VS 市長」となるんじゃないか?
これ違うかね?
市民は自分の考えを市長に言いたいんだからさ、市民の目線は市長に向けられるはずだろう?
まさに、「市民(個人や団体) VS 市長」 でしょうよ。
(疑問符ばかりになってしまった)
で、「市民」というくくりには当然「会」も含まれている。
だから「自分(たち)VS市長、という構図」(この文での「自分(たち)」は「会」のこと)は、何も特別なことではない。
「自分(たち)」=「会」=「市民」なんだからさ。「会」にだけその構図とやらをことさら強調するのはおかしいでしょ?
「会」は「市民ではない」とでも言うのかね、市長は。
そしてこの文、「自分(たち)以外の市民のことは視野に入っていません。」。
ここで思い出したいのは少し前の「1~3」と「☆」。
市長は市民に「まとまること」を求めてはいない。「『その意思や考え』も尊重しながら」と言っている。
市民はまとまる必要はないんだから、「自分(たち)以外の市民のことは視野に入っていません。」という状態でもいいはずだ。
なのになぜ「自分(たち)以外の市民のことは視野に入っていません。」(この文での「自分(たち)」は「会」のこと)と、ことさら「会」に市民としてのまとまりが欠けている風に非難するのか。
「自分(たち)」=「会」=「市民」なんだからさ。「会」だけ非難するのは矛盾してるでしょ?
「会」は「市民ではない」とでも言うのかね、市長は。
このように書いてみて気づくのは、市長の視点では「会」は「市民」ではない、という認識だ。
市長もそうだし一部の議員もそうだが、住民投票の結果が出た時「選択肢1を選んだ人の意思も尊重して」と言っていた。
「選択肢1を選んだ人の意思も尊重して」の根拠は、2を選んだのは市民、1を選んだのも市民、どちらも「市民」だからだ。
くどいけれどももう一度書く。
どちらも「市民」だからだ。
ところが市長ときたら、住民投票で負けた時は自分を支持した人たちを「市民」として尊重しろと言い、市長リコールで自分と敵対する立場の人たちは「市民ではない」と言う。
この根拠は? 市長の主観、としか言いようがないだろう。
どちらも「市民」じゃないのか?
前々回の私のブログで、市長リコールを求めた根拠において市長と白井議員とで主張が異なることを書いた。
そして今回、「市民」の範囲は市長の主観でコロコロ変わることを書いた。
なんかね、おかしいよなぁ。