「若者シンポジウム」に参加してきた

若者と政治との関連を新城市に鑑みていつも真っ先に思うのは、

・新城市新庁舎建設の住民投票の経緯を知っているか? そしてどう思うか?
・新城南部地区の産廃業者進出の経緯を知っているか? そしてどう思うか?

この2点だ。

「まちづくり」とは言い難い新城市のネガティブな部分。
しかし行政や市議会、そして市民が地元の問題として考えていかなければならない政治的な事柄と、私は考えている。
だから若者が政治に関わるなら、そして新城市に住む若者ならぜひ考えてもらいたいと思っている。

しかし、今回参加した「若者議会シンポジウム」では上に挙げたような具体的な政治的課題に触れる前に多くの課題があることに気づかされた。

・「若者がどのように政治にアクセスするのか?、したらよいのか? その課題」

こう言っていいいだろうか。

シンポジウムでは班に分かれていた。第2部のワークショップのためだ。
私の班は全部で6名。
若者は3人いたが1人は「若者議会」のメンバーで社会人、あとの2人は学生さんだった。

彼、彼女(以後「彼ら」と書きます)らの班での話し合いの様子を見ていると、先に挙げた課題が見えてくるような気がした。

まず「大人がしゃべりすぎる → 若者が意見を言えない」

今の若者たちは「場の空気を読む」し、私のようなおっさんが思うほど無礼ではなくむしろ礼儀正しい。
なのでおっさんがしゃべり始めると、「関心があるように頷きつつ聞き入ってくれる(フリをする)」のだ。
おっさんたちは気持ちよくなっちゃうのだ。聞いてくれるから。しかも若い子だし。
多分、気づいていないんだろうな大人は。
(自戒を込めて。私もおっさんなのだ。)

そして「大人のしゃべりはいつの間にか『説教』になる。」
さらに「説教はいつしか大人の若いころの『武勇伝』になる。」

それでも若い子たちは「聞いてくれる」んだよなぁ・・・。

主権者は大人ばかりでなく、若者たちも同じく主権者だ。
主権者教育を掲げて彼らの考えや意見を欲するなら、まずもって私たち大人は「聞かなくてはいけない」。
そして「言葉数を少なく」。

最後には説教臭くなってしまうのは、「若者をなめているから」だろう。

実際彼らの話を聞いていると、しっかりしているのだ。
話し合いをリードしてくれた若者議会のメンバーの彼は模造紙に話し合いの経過を書きつつ、話し合いにも参加して考えをまとめてくれたりと、実に才能を感じた。
彼らより私たち大人が勝っているのは「失敗しないための経験」だけだろう。
物事をマイナスにしないためにだけ役立つ経験だけで、なにか新しいことを創造することに役立つ話などできないのではないか?

この「若者をなめた態度」というのはパネルディスカッションでの壇上の若者たちも共通して感じるモノらしく、大きく頷いていたのを思い出した。

私たち大人は若者の政治参加を考えるときに彼らの幼さを問題視してしまいがちだが、迎え入れる私たち大人にも問題があることを考えなければならないと、強く感じる。
同じ主権者として彼ら若者を尊重する態度が足りなかったのではなかろうか。

と、まずは大人が持つ「若者が政治へのアクセスするための課題」を挙げてみた。

続く。  

2017年02月20日 Posted by けま at 14:35Comments(0)市政を考える