シンポジウム 「長篠・設楽原の戦いを考える」 2

シンポジウムの内容にも少し触れたいと思います。

第一部では長篠合戦で戦った大名、武田氏、織田氏、徳川氏、それぞれにとっての「長篠・設楽原の戦い」が3人の先生から報告がありました。

そしてここで訂正。
前の記事で、第一部は一次史料のみでの研究成果の報告と書いてしまいましたが、間違いでした。
すいません。
3人の先生の報告のうちの3番目「徳川氏にとっての長篠・設楽原の戦い」を担当された谷口央先生は「二次史料」といってよい「家譜」をもとに研究された成果を発表されました。

順番が前後してしまいますが、こちらの報告は大変おもしろかったです。

「家譜」とは大名家が作った、「お家」がどのような由来でもって今の地位にあるのか?を書き記したもので、子孫に初代の威光、偉大さを示さなくてはならず、自然に“盛った”内容にならざるを得ません(笑。

設楽原の戦いでイメージするのは、鉄砲隊と騎馬隊の激突、なワケですがこれが一番メジャーな正面の戦いですね。
それに対して搦め手の戦いが「鳶巣砦攻略」で、近年ではこちらの戦いも注目されつつあります。
が、やはり現在においてはまだまだマイナーな扱い。

しかしこの戦いでの東三河衆は彼らの家譜において、むしろ「鳶巣砦攻略」を大々的に宣伝している、と谷口先生はおっしゃいます。
特に鳶巣砦攻略の発端、「酒井忠次の信長への献策シーン」は酒井家はもちろん、鳶巣砦攻略に参加し活躍した東三河衆の各家に伝わっていることがわかっています。

このシーンは戦国モノのドラマでは結構有名な場面ですね。
酒井忠次が織田徳川の武将が居並ぶ軍議の場で献策するも「そんなのダメッ!」と信長に叱られてしまいますが、軍議後密かに呼び出されて「あん時はゴメン。あまりにイイ策だったんだけど、間諜を用心して採用しないフリしちゃった、テヘペロ。」というシーン。
この後、鳶素砦奇襲部隊が組まれて、大将はもちろん酒井忠次。
織田勢5000人に徳川は東三河衆を中心に3000人の、計8000人が砦攻略に向かいます。

この数字、どこの家譜にもほぼ同数の記述があり、まず間違いないとされています。
そして織田勢が多いにも関わらず、この攻略に至る記述やこの後の砦攻撃での活躍や被害の状況が東三河衆の家譜に書かれているのだそうです。

これは何を意味するか?
設楽原の戦いは織田信長や徳川家康といった大名級の捉え方とは違い、東三河衆独自の捉え方があった、ということ。
ここでの活躍がお家発展の基礎となったため、この鳶素砦攻略シーンが「スゴい戦いだったんだぞ」と子孫に知らしめる必要があったということ、なわけですね。

そういえば出典を失念してしまったのですが、新城の菅沼家では新しい殿様が家を継ぐと初代の功績を忘れないために、鳶巣砦攻略ルートを歩くという儀式のようなものが行われていたという記事を読んだ記憶があります。
これなんかも東三河衆が鳶巣砦攻略参加を重要視していた証拠かもしれないですね。

とか思ったんですが、これまた思い出したことが。
実は野田菅沼氏の家譜には鳶巣砦攻略の記載がないんですって(^_^;)
う~む、となると「菅沼の殿様、鳶巣砦攻略ルートを歩く」は見間違いだったのか・・・。
そして、長篠籠城で武勲をあげた奥平氏の家譜でもいくつか種類がある中で記載がある家譜と無い家譜があるとか。

菅沼家譜にも奥平家譜の全てにも、鳶巣砦攻略シーンが記述されていれば万々歳なんだけど、そうはウマくいかないところにまたナゾが(笑
こういう齟齬に妄想を膨らますのがまた歴史のオモシロいところ。  

2016年02月24日 Posted by けま at 00:30Comments(2)歴史から