印刷局見学の後、どこ行ったんですか?

8月10日に開催された「議員面談要請に伴う会合」に出かけてきた。
この会合は新城市政を考える会さんの主催で行なわれた。

正直に言うと、この事件、というか裁判についてよく知らなかった。

当日頂いた資料を読み、この会合での考える会さんからの質問やこの事件に関係する議員さん方からの回答を聞いていていくらか分かってきたが、それはそれでまた疑問も湧いてきたりして少し消化不良な感じだ。

それからずっと考えてきて、いくらか考えもまとまってきたので久しぶりにこちらのブログに書いてみることとする。

この裁判での争点は、
「二日目の国立印刷局見学が具体的に市政にとって有益であったかどうか」
の、この一点だ。


身もフタもない書き方をしてしまうが、議員さん方の市政に関与する際の頭脳の働き方やセンスは議員さんによってかなり差がある、と思っている。
一生懸命知恵を絞って視察・見学先を決めて、そちらに赴いて説明を聞き、報告書を提出してもらうもA4用紙一枚にしかならなかった。
としても、そりゃもうしょうがないじゃんか、という気がしている。
そういう議員さんなんだもの。私たち市民もそういう人を選んじゃったんだしね。

議員さんの活動を善意に解釈すれば、基本的には「全てが新城市を良くしたい!」という善意の発露だと思う。
だから、議員さんが視察・見学先に行く前から一々細かいこと言うのは、

  基  本  的  に  、

言わない方がいいと思っている。

くどいようだけど、彼らなりの善意の発露だと解釈してあげたいから。


そういう意味でこの裁判での争点は、自由でフリーダムな議員さんの活動をいくらか妨げることにならないかと、少々腑に落ちない点でもあった。


ところが、この時の会合での不正規な発言の中で、「『桜を見る会』みたいなのに参加したじゃないか。」「そういう写真を見たぞ」という類のものを耳にしたことを不意に思い出した。

これがこの二日目宿泊にどのように関係するのか(特に時系列的に)は、今となってはよくわからない。
けれども、これは全くの想像になるけれども、この「なんとかの会」みたいなものに参加するのが主たる目的だとしたら。
そしてこの「ナントカの会」出席が二日目午前に行われた印刷局視察の後の、午後に行われたものなら。


はい、以下はワタクシの全くの想像です。


ナントカの会出席したい。
それは二日目午後だから、一日目の用事がすんで一旦新城に帰ってもう一度東京に行くのメンドクサイ。
午前にどうでもよくて短く済ませられる視察を一件入れて「そのために宿泊します」という風にしておいて。
それで午後からのナントカの会に出席できるようにすれば、午前は公務で、午後は公務無しの私的な用事っていうことで体裁も整ってイイじゃないの。

などというようなことを想像してしまいますよ。なんだか辻褄があうじゃないの。


本来なら「私的用事のために宿泊をしたのか否か」が問われる事件だったんじゃないのだろうか?
私的な用事で公金を使った宿泊をされたら、そりゃ税金を納める市民としては全く納得できない。

しかし「午前の『公務』のための宿泊」とくれば、この場合の宿泊を否定するのは難しい。
そして公務が済んだ後に私的な行動を取るのは、これは多少の倫理的な問題を含むと感じるけれども、一般市民でも仕事帰りに飲みに行って通勤用の定期で帰宅なんてことはよくあることを考えれば、これも否定しにくい。

それゆえに、「二日目の国立印刷局見学が具体的に市政にとって有益であったかどうか」 を争点にしたのではないかな、と。
つまり、先ほど挙げた「公務」すなわち「印刷局見学」を、公務に値しないシロモノだと証明できれば、「公務に値しないシロモノ」のための「宿泊」も無効にできる。


と、想像力をたくましくしてみたけれども、さらに仮の話を続けさせてもらえば、
私たち市民が本当に知りたいのは、「二日目の国立印刷局見学が具体的に市政にとって有益であったかどうか」ではなく、
「宿泊の本当の目的は?」とか「印刷局見学の後はどこに行ったんですか?」 となるかな。

もちろん本当のことは言わないのだろうけど、裁判でもないのにその程度のことが言えないのなら、とてもじゃないが「新城市をよくしたい」という善意の発露を期待できる議員では無い、とは言えるだろう。  

2020年08月22日 Posted by けま at 14:40Comments(0)新城市議会市政を考える

5月臨時会を傍聴してきた

市議会の話。

市議会において議案が提出されて、議員により賛成反対の意志表示がなされて、そして議案の成立不成立が決まる。
これが大体の流れだけれども、実際には細かなルールがあったり聞き慣れない言葉があったりで詳しくわからないことが多かった。

で、先日行われた5月臨時会議を傍聴に行ったのだが、市議会議長と市議会各委員会の委員長の不信任決議案が実に6回も行なわれるという場面に遭遇した。

同じようなことを6回も。

漢字や英単語を暗記するときは、ひたすら読む書くを繰り返す。
不信任決議案が提出されてその決議が行われるまでの流れを、なんと6回も見せられれば、わからない事の多かった議会で物事が決まる仕組みも漢字や英単語と同じく流石に覚えられるというものだ。

と、まぁ半分は新しい知見を得ることができて満足できた反面、同じことを6回も見せられてあきてしまった気持ちが半分といったところだ。

では満足できたところの「議会で物事が決まる仕組み」的なところで思ったところをいくつか。

今回の不信任決議案のような、事前に議案として上程されていないものを議会で取り扱う場合、その議案が緊急性を要するものか否か? がカギとなる(らしい)。
緊急性があるかどうかを、1)まずは議員皆さんにお尋ねし、2)異議が無ければ、つまり緊急性を要するものであると了解されれば、3)議案として議論に入る。
というプロセスを踏む。

なので、2)のところで誰か一人の議員が「異議あり」と言えば、そこで緊急性を要するものと判断されなかったとして、「議案とはならない」というものらしい。

これは後で書こうと思うのだけれども、今回不信任を突きつけられた委員長の皆さん方は新城市議会においては多数派のお歴々なので、最後の採決で必ず不信任案を否決できる(実際そうなった)。
なので、どうせ否決できるのだからこの 2)の段階で「異議あり」と多数派のうちの誰かに言わせて、不信任案自体を議案にしなければよかったんじゃないかと思うのだが、実際そうはならなかった。
なぜか?
これはこの2)の段階では「異議あり」と言わない暗黙、あるいは議会運営上の慣習的なルールかもしれず、実際のところよくわからない。
どこかで機会があったら議員さんに聞いてみたいと思っている。

次に、この6回の決議にはなぜか市長や副市長といった行政のエライ人たちもずっっっと席に着いていたこと。
委員長の人事に関することに思われる今回の不信任決議案は行政には直接関係ないと思うのだけど・・・。
思いつくのは委員会や議会の開催要件の中に行政の出席があるのかな?ということぐらいだろうか。
いつもの全員協議会にはいないし、各委員会にも出席したとかいう事は聞いたことが無い。
しかしそうすると、この日の予算決算委員会は文字通り「委員会」だが、行政は出席していたことの説明にならない。予算決算は市民からの税金の使途に関係する重要な委員会ではあるけれども、何をもって「重要」か?は一概に決められないと思うので、ルールとしては曖昧だ。

というか、これは議員からの質疑に行政が回答しなければならないからか。予算決算議案の提出者が行政なのだから、その場に行政がいなければ回答できないな。

と考えると、不信任決議案は議員からの発議なので、ますます行政が会議場にいなければならない理由がない。
という感じで、ここでも議会運営のルールの謎にぶつかった。
取りあえずは市長はじめ、行政側のエライ人たちには気の毒なことだったと思う(早く帰るか、執務に戻りたいと思っただろう)。

次は「討論」のこと。
議会が始まる前に市のHPで公開される「発言通告書」。
これは各議員がその議会でこういう発言をしたい、という旨をあらかじめ伝えておく書類なのだけれども、その項目のなかに「発言の種類」というものがある。
「討論」もその発言の種類のなかのひとつで、その議案に対する賛成反対の理由を述べるものだ。

今回の6回の不信任決議案も最後には賛成反対の採決を取る。
なので討論も6回、反対賛成の立場の議員さんたちが自論を展開した。

今回のこの討論、とても聞きごたえのある場面だった。
特に不信任決議案に賛成している(議長、委員長を辞めさせたい議会少数派)議員の皆さんの発言には熱量が豊富にあると感じた。
不信任決議に反対(議長、委員長を辞めさせない議会多数派)の議員をどうにか説得したい、考えを改めてほしいという気持ちが感じられた。

議案の意味を理解するために「質疑」という発言があり、その発言で議案の意味が理解できたら、あとは議員自身の判断で賛成反対を決めて、採決。
この流れで十分と言えば十分だけれども、やはり市民としてはなぜ賛成なのか反対なのかを知りたいところで、その理由はこの「討論」で披露される。
なので「討論」での発言は、議員が市民に対して自分の考えを伝える役割が大きかったように思う。

ところが今回の討論での発言は対市民というより、対議員、その場にいる議員に対するメッセージ性を強く感じた。
考えてみれば自分の思うように議案を可決、否決させたいのが議員の本質だろう。
ならば自分と異なる意思を持っている議員の、その意思を自分の言論でもって変えさせようとするのが「討論」の場に相応しい態度というものではないか。

そしてその態度を強く感じたのが不信任案に賛成する、議会少数派の議員さんたちの発言だった。

ではなぜこんなに熱量のある発言が賛成議員さんたちから相次いだのかは、私のブログでもぼちぼち取り上げている「新城市議会政務活動費返還請求住民訴訟」に繋がってくるのだけれども、これはまた後ほど書くとして。

市議会では多数決で物事が決まる。
新城市議会では明確な会派は無いものの、今回の不信任決議案での賛成反対で表明しているグループ分けが存在している。
なので最後には必ず今回の不信任案に反対する多数派グループの考えが通ってしまう。
今回もそうだ。結局賛成派の発言は反対派の考えを変えるに至らなかった。

しかし結果的にどうなるかは分かっていても、あれだけ聞いている者の心情や理解に訴えかける発言が我が市の議員さんにもできるのだということがわかった。
そのような発言が、ルール通りにするすると流れていく市議会でも可能なのだという事がわかったことは、市議会の在り方に新しい楽しみを見い出せた気がする。  

2020年05月16日 Posted by けま at 12:21Comments(0)新城市議会

「多数決主義」のもたらしたモノ

要望書、陳情書、と言われても一体何を要望しているのか、何を陳情したのか?

前回のブログで書いた全員協議会は2月17日に行われたものだが、この「要望書」「陳情書」なる言葉を初めて聞いたのは2月5日での全員協議会だ。
2月5日の全員協議会(以後、「全協」と略します)では主に市の高速バスのことについて話し合われたのだがそれも終わりかけた頃、丸山議員から「実は・・・」という感じで議員全員に配られたのがこの「要望書」だった。

これが何を意味するのか、私にはさっぱり?だったのだけれども、なんだかエライもんが出てきたという雰囲気で、以後議論が白熱した。
この議論が終わった後も、元市議の加藤さんがとある議員さんに食って掛かる勢いで迫って、とにかくスゴイ場面に遭遇したもんだと興味深かった。

この出来事は浅尾議員のブログ(「ブログ 疑惑の「要望書」が、とうとう明らかに!」)やパパパさんのブログ(「ステップを踏んでいない要望書」)で詳しく書かれていて、全協の後にこちらを読ませてもらって凡そ(おおよそ)理解できた。

というわけで、私は個人的な感想を。

今回の要望やら陳情やらは有志の議員さん達が行なったことで、そのこと自体はなにもおかしいことではない。
その要望・陳情に賛意を示さない議員さんもいて、それも全くおかしいことではない。
議員さんは自身の考えや信念に基づいて政治的な活動をしてもらえればいい。

市議会議員全員が賛同しているわけではない要望書・陳情書に、有志議員の皆さんが「新城市議会」と印刷してしまったことがおかしいのだね。

表紙に「新城市議会」と印刷してあれば、それを見た人は誰だって「市議会議員全員の要望・陳情なんだな」と思うでしょう。
そりゃ賛意を示していない議員さんにとっては「いやいや私は要望も陳情もしておりませんよ」と言いたくなる。

一体なぜ有志議員さんたちは「新城市議会」と印刷してしまったのか。

私ら一般人だってそれくらいの推測はできる。
 「『みんな』が言ってるんですよ!(私らだけの主張じゃなくてね!)」ってコトだよね。

常識的には、私たちは「多くの人が賛同している」という事が、主義主張を通したい時の大きな武器、強い理由になる事を知っているからだろう。
そして有志議員たちに「多くの人が賛同している=それこそ力」という実感を持たせているのは、即ち「多数決主義」であろう。

市議会では多くの議案を最終的には多数決で決める。
定例会では一応賛成、反対討論が行われるが、その討論を聞いて考えを改めた、などという話は聞いたことが無い。
もう大体どの議員が賛成するか反対するか、その面子は概ね決まっているのが実情だ。
この時多数派になるのが、件の有志議員達だ。なので多数決で決める段階になれば、反対討論がいかに筋道が通っていようが関係なく、彼らの通したい議案がスイスイ通る。
このように有志議員たちは市議会で彼らの賛成する議案が通ることを実感しているので、「数こそ力」と考えていることは間違いない。

少し「数の力」をネガティブに書いてしまったが、「数こそ力」なのはふつうの市民による「デモ」にも表れている。
「これだけの人数が意見しているんですよ」を、目で見える形(多くの群集)で表しているのがデモだ。
このように、議会にしても民衆が意見を表明するにも「数が力」なのは間違いなく、なので「有志議員」という名前よりも数の多い「新城市議会」という名前で要望・陳情しようという気持ちになるのは私たち一般人にも理解できる。

では「数は力」を成立させるにはどうしたらよいのか。
言い換えれば、「安定的に」「楽に」数の力を成立させるにはどうしたらよいか?
ここに市議会議員ならではの理屈が潜んでいるように感じている。

議員にとってのその理屈の表れは「会派」であろうと思っている。

今現在、市議会には会派は存在しないようだが、この前の選挙以前の市議会では議会改革によって無くす方向になっていた会派を復活させた議員達がいた。
この復活させた議員達が、これまた今回の有志議員たちだったのだ。
会派の中でどのような話し合いがあるのかは知らないが、会派のエラい議員がこうと決めれば会派に所属する議員は皆サッとそれに従う。
つまり「楽~に」力を行使できるのだな。

議会での決定権はオレ達「会派(有志議員たち)」にある、という驕った気持ちが生じていたんじゃないか?
そして最近あった交通費や宿泊費の不正請求(これらも有志議員たちがしでかしたこと)は、「これくらいのズルはいいんじゃね?」という順法精神のユルさからきたんじゃないか?

この「驕った気持ち」と「物事をユルく考える」ことが、「別に『新城市議会』って名前を使ったって文句言うヤツはいないだろ」という安易な行動に繋がったんじゃないかと考えている。

この「多数決主義」という物事を決める方法のひとつに「会派」を使いだすと、結局何も考えずに会派の決めたことにただ従うイエスマンを生み出してしまうことがある。
「なんにも考えない議員」という多数決の一番マズイ特徴が露わになってしまう危険性がある。

「何にも考えない」から、自分たちに反対する意見を主張する少数派の議員をないがしろにする。
そして議員数では少数派であっても、その議員を当選させるために投票した市民の数は決して少なくはないのに、その市民たちを結局ないがしろにしていることに気づかない。
さらに言えば「何も考えない」から、不正請求の元になったお金は「市民の税金」ということに気づかないのだ。

議員全員の了承無しに要望・陳情書に「新城市議会」という名前を使ってしまった今回の件は、新城市議会の現状が生み出した事故と言えるんじゃないだろうか。  

2020年02月28日 Posted by けま at 11:48Comments(0)新城市議会

全員協議会を傍聴しての帰り道

浅尾議員のブログを読んで知った2月17日の新城市議会の全員協議会に行ってきた。
その前2月5日の全員協議会にも傍聴に行ったのだが、大変面白い劇のような、しかしリアルに深刻な場面に遭遇して味を占めてしまった。
次回もおんなじことが起こんないかと(笑。

傍聴に当たっての困りごとは、議員の皆さんの議論の元になっている資料が傍聴者には無いことだ。
聞いているうちにあの事かな?と想像できたりするモノもあるが、今回は議題が多くてよくわからないモノもあり、話合いをしている内容の理解がなかなか難しい。
資料があれば理解も進むのだがなぁ、と思う。

今回は傍聴席のちょうどお隣にお馴染みの「パパゲーノの夢」のブロガー「パパパ」さんがいらっしゃって、生で解説してくれて大変助かった。
市政に関心がある人たちの間で知らない方はいないであろう、ブロガーのパパパさんに生でお話しを聞かせてもらえるのは現場の良いところだ。
元市議会議員の加藤さんも元気にヤジ(あるいはでかい独り言)をお飛ばしになられていて(笑、傍聴の現場は結構楽しい。


話合われた内容について思った事はまた後に書くとして、今回は全体的に感じたことを書いてみたい。


全員協議会の最後の議題は「広域連合議会」のことについてだった。
浅尾議員の指摘によれば、新城市から3人の議員が参加しているが今回の「広域連合議会」では3人とも質問をしなかったらしく、また「広域連合議会」で配られた資料も他の新城市議会議員には配られていないらしい。
やるべきことをしっかりやってほしいという浅尾議員からの厳しい意見があり、それはごもっともなことだ。

新城市議会での質問なら、例えば小学校の施設が壊れてるとか修理が必要だという気づきやすい視点から教育予算の問題へと視点を大きくした質問に繋げやすい、てのはあるだろう。
手元に広域連合議会の広報「ひがしみかわ」があるのでパラパラと見てみると、広域連合には3つの取り組みがあって、

1・広域連携事業 単独の市町村では実施困難な事業の調査研究
2・共同処理事務 市町村がそれぞれ行っている事務を一括処理することで質、効率を高める(例えば介護保険事業など)
3・権限移譲事務 県の行っている事務を権限移譲してもらい行政サービスをより身近なものにする

と書いてある。
内容が割と巨視的で身近に感じにくい。これをどうやって質問に組み上げたらよいか悩むのではなかろうか。
広域議会の定例会は8月と2月。3月には新城市の定例会もあるなかでこの時期の質問作りもなかなか大変だろうと同情してしまう。

まぁそうは言っても他の広域連合議会議員さんは質問しているワケだし、そもそも巨視的な見方ができなければ通用しない性格を持っているのが広域連合なのだから、広域連合議員はやらせてもらえれば箔がつく名誉職ではないよね。
そういう考え違いにクギを刺したのが今回の浅尾議員の指摘とも言えるだろう。


そして広域連合議会での資料を配布する件。
資料は広域連合議会議員個人に配布されるだけであろうから、そいつを広域議員3名が新城市議会議員15名分コピーして、選り分けて、ホチキスで留めて・・・、なんて作業は大変でしょうなぁ。

とあるところに置いといて、「各自必要な方はコピーして持ってって~」てワケにもいかんのかな。
資料の取り扱い方としてマズイかね。
コピーしながら「これが市議会議員の仕事か・・・」と悩んでしまうんじゃなかろうかw
それは冗談にしても、やってることは市議会議員の本分ではないだろうな。そんな時間があったら定例会のための勉強でもしたらいいんじゃないかと思う。

これら2つのことから考えてしまうのは、議員の仕事をアシストする仕組みを整えてやる必要があるんじゃないかということだ。

「市議会は年4回。1年に4回しか仕事していないじゃないか!」
とは、よく聞く市民の声だ。
それもまたおっしゃるとおりで、私もそう思っていた。

これは個人的なことだけれども、社会に出てウン十年の自分を振り返ってみると、どうにか無難にこなしているのは自分の仕事だけだということに気づく。
アラフィフのおっさんが間違いなくコピーを取って、見やすい資料を作る。しかも手際よく時間をかけずに。果たしてできるだろうか?と自問自答すると・・・つい考え込んでしまう。
もちろん議員はコピーばかりしているわけではないけどねw
ブログを書くときには一通り議員自身のブログやfacebookをチェックするが、議員は地域の付き合いや様々な集まりによく顔を出していることが目立つ。
そういうのも仕事のひとつと言えようが、やはり定例会で質問するという議員の本分ではないだろう。

今回の全員協議会でも本題のバス事業のことや、裁判にもなっている「要望書問題」での議員さんのやりとりを見ていると、議員になる以前は自分の仕事を持っていてそれなりにこなしていただろうに、議員になってしまったばかりに大変なコトになっておるなぁと、考え込んでしまう。

議員さんとはいえ、公人とはいえ、やはり自分のようなアラフィフおっさんとそうは変わらないんじゃないかと。
1年に4回の仕事、つまりひとつの仕事に3か月というのは、上に書いたことをこなしながらするには割と時間が無いのではないかと、凡人の自分に引き寄せて同情してしまうのだ。

・・・かなり“情”に傾いた感じになってしまった(笑。

というワケで、議員の仕事のアシストの件については、秘書的な仕事をやってくれる人を雇用するために報酬を上げる(今の倍くらい)とか、議員事務局の人数を増やして、議員の本分としての仕事はもちろん、本分ではないがやらなくてはならないこと(コピーとか)をもう少し手厚くフォローできる体制を作るとか、してほしいものだよなと傍聴の帰り道思った次第。  

2020年02月19日 Posted by けま at 10:15Comments(3)新城市議会市政を考える

政倫審を傍聴してきた

昨日ちょうど仕事が休みで、かねてから傍聴したいと思っていた山崎議員の政倫審へ行ってきた。

今回で17回目の開催となる。
以前に行われた政倫審の中でも格段に長く時間を費やしている。

長い時間をかけていることに対しての市民からの批判もあるようだが、この件に対して継続的に注視をして情報を提供してくれているおなじみ「パパゲーノの夢(パパパさん)」のブログでは、丁寧な対応をしていると好意的な見方だ。

今までの政倫審の経緯はこのパパパさんのブログで追っていたけれども、今回現場を目の当たりにして、割とスッキリしているなという印象を持った。
各議員が今までの話し合いの内容をしっかり理解している中で話し合いが進行しているな、と感じた。
市議会の姿と言えば、エイヤッ!とばかりに各議員の意見や考えをよく吟味せずに多数決で即決してしまう印象で、自分の考えをよく理解してもらえていない議員さんのくすぶった感が垣間見えたものだが、今回の政倫審での各議員さんの姿も時間をかけた結果であるなら意味はあったというものだ。

現在の政倫審での議論の中心は、山崎議員に対してどのような審査結果を出すか、ということのようだ。

ひとつは「辞職勧告」。
もうひとつは「正式な謝罪を求める(させる)」。

これは政倫審が自らの裁量で自由に措置を決めているのではない。
審査結果による措置は、具体的に条例の中で決められている。

この措置を具体的に提示しているのは新城市議会議員政治倫理条例の第9条で、

(1) この条例の規定を遵守させるための報告書の発行
(2) 議会内での役職辞任の勧告
(3) 議員辞職の勧告
(4) その他必要と認める措置 

の4つが決められている。

この4つの中に「謝罪を求める(させる)」という具体的な措置は書かれていないが、4のその他必要と認める措置に含まれるものだというのが今回の政倫審の考えだ。

この辞職勧告か、謝罪か、で話し合いが行われていてなかなかまとまらないでいるワケだが、まとまらないながらも話し合いの印象としてスッキリしている感がある。
それは最初にも書いたように今回の政倫審で長時間かけてこの件を調査したからこそで、根底として山崎議員の今回の不正に対しては、各議員が「非である」という点で一致しているからだろう。

この「非である」という点について。
これは山崎議員のしでかした事件はもちろんなのだが、当人の議員としての資質、人間性に対しても「非である」という認識が各議員にもあるようなのだ。

3月議会において「山崎祐一議員に対し、新聞報道にかかる市民への説明責任と陳謝を求める決議」なるものが可決されて(議会しんしろNo54を見て下され)、一応議会内では彼は謝った。
しかしこの件、本当に反省しているのならば市民の前で謝罪するべきだという考えが多い中、一向にその様子がうかがえない。
そして決議においての山崎議員の陳謝も「仕組みが悪い」とか、他へ責任転嫁する発言がありとても反省している様子が見られない。
彼が今回の件で関わった団体への謝罪もしていないという。
これらの山崎議員の態度や行動が、その他の議員さんにとって議員としての資質に問題あり、と見られているようなのだ。

このように、議員としての資質が「非である」からこそ辞職勧告を求める、のもなるほどと思える。
一方謝罪を求めるのも、まずはしでかした事が「非である」のだから謝るのが筋であろう、と言うのもまぁわかる。
しかしここでおもしろいのは、謝罪を求める議員さんも以上に挙げた山崎議員の態度や行動から推察して、本気で反省などはしないだろう、とも思っているところだ。(実際、今回傍聴していてそういう発言を聞いたw)

9条による措置には軽重があるように見受けられる。
一番重いのは、もちろん「辞職勧告」だ。
しかしこれは「勧告」であって、本当に辞めさせる力は持っていない。
とは言いながら、政倫審としては事の重大さをアピールするには「辞職勧告」は有効だろうと思われる。

一方「謝罪」は、辞職を求めるよりは一段軽い感じがする。
謝罪を求める議員さんの言い分だと、場所を設定したり、謝罪文を作成したり、などなど手取り足取り山崎議員の謝罪のためのお世話をするようなのだ。
政倫審としては、しっかりと「謝罪しましたっ!」という姿を市民など対外的に、“はっきり”と“文句が出ないよう”に認識してもらえるようにする意図があるのだろう。

しかしこれ、議員としての資質にはっきりダメ出ししているのは「辞職勧告」案のように見えるのだが、「謝罪」案は山崎議員を人間としてはっきりダメ出ししているように見えるよ。

新聞記者から市議会議員になった社会的にも認められる人間が、謝罪の場所とか謝罪文を他人から用意させられるってどうだろうね?
山崎議員をマトモな社会人として見ていないから、でしょ?

「辞職勧告」案は勧告するだけで、その後の具体的な行動を山崎議員には求めていない。
しかし辞職勧告を出されたら山崎議員としてはなんらかのアクションを見せるべきで、それは別に謝罪しなくてもいいし、謝罪や反省の態度を見せて議員としての今後の働きで名誉を回復してみせるのもよい。
そういう社会人としてのマトモな対応を期待しているのが「辞職勧告」案とも言える。
これはある意味、山崎議員を人間または社会人としては見ているともいえるのではないか。

「謝罪」案は一段軽い措置という点で山崎議員に温情をかけているようで、その実、彼をマトモな人間扱いしていないという点で、こりゃぁかなりヒドイ(笑。

私は毅然とした辞職勧告がよいかなぁと思っていたが、こんな風に考えると手取り足取り謝罪案も皮肉が効いててよいと思うようになった。
気がかりなのは、こういう皮肉、嫌味が山崎議員に、そして市民に届くかどうか、だ。  

2018年10月18日 Posted by けま at 10:49Comments(0)山崎市議交付金不適切申請

裁判傍聴に行ってきた 3

7月18日の名古屋地裁での裁判では、午前中に加藤さん、午後は市役所側からの2人への尋問が行われた。

午後の尋問に関しては私の拙いメモや記憶よりも、白井みちひろさんのブログの方がはるかに詳しく正確だ。
 → 白井みちひろ後援会公式ブログ 裁判傍聴記「新城市役所は大丈夫?」(2018年07月19日)

是非こちらを読んでみてください。


今回の記事を書くにあたってネットで色々と検索をしていたらこんなサイトがあった。

 → 民事裁判における当事者尋問の様子

このサイトに書いてあること、まさにこの通りのことが行われていたなぁと再確認できた。


で、こちらのサイトの言葉を借りると、

“次は法廷で尋問手続が行われます。 必ず行われるわけではなく裁判所が必要と認めたときのみですが、事実関係を巡るお互いの主張に隔たりがある場合は、大体行われるものと思っていいです。”

ということは、加藤さんの言い分と市側の言い分に隔たりがあるので今回の尋問が行われた、という事だろう。

ではその隔たりとは何か?

私が傍聴していた記憶とメモによれば、後で補足しますが、今回の焦点である用地補償について、

加藤さんは市側から「相談を受けた」と言っている。
市側は加藤さんに「相談していない」と言っている。

(※加藤さんは市議以外のご自身の仕事として、不動産の関係のお仕事をされていて土地取引のことについて詳しい。市職員もそのことを知っていたからこそ相談した。)

ここの食い違いの事だろうと思っている。


最初の記事に書いた加藤さん側の弁護士が、午前中の加藤さんへの尋問でも、午後の市側への尋問でも同じ質問をしているのだ。
加藤さんには「市の職員から(この用地補償の件について)相談を受けたか?」
市側には「加藤さんに(用地補償の件について)相談をしたか?」と。

そしてその回答が先に書いた、加藤さん「相談を受けた」・市側「相談をしていない」。


ほぉ~・・・・、という気持ちだ。


尋問の最初には裁判官に向って「宣誓」をする。
「真実を述べ、嘘をつかないことを誓う」のだ。

この時は双方の弁護士も、私たち傍聴者も起立を求められた。
多分に形式的、儀式がかっているなぁとは感じたものの、ウソであれば罰を被るものであるらしいし(偽証罪、になるらしい)、法廷での発言はやはり重いモノなのだと改めて感じさせられた。

にも関わらず、互いの証言が食い違うのだ。 一体どういうことか?
どちらかがウソをついているとしか考えられない。

午前の加藤さんの尋問の時には件の2人は傍聴席にはいなかったと記憶しているが、午後の尋問では加藤さんは傍聴席にいた。
果たして市側のこの回答をどういう気持ちで聞いたのか。
なにより、裁判官は双方のこの食い違う回答を本人の口から実際に聞いて、どう感じたのだろうか。

新城市議会や委員会を傍聴に行くと、基本的には傍聴者は黙って聞いていなきゃならないのだが、結構皆さんがやがやと聞こえるような声でつぶやくというか口を開く(笑。
新城市らしくておもしろいのだが、さすがにこの法廷ではそういう声は聞こえない。
この沈黙した空気がまた重みを感じさせる。

という感じで双方の尋問も終わり、一日かかった傍聴も終わった。


次回は8月1日(水)に、今回欠席した現新城市長が法廷に立つ。
一体どんな尋問が行われ、市長はどう答えるのか。

市民のみなさんもぜひ傍聴へ。私も仕事がありますが傍聴に行くべく調整中w  

2018年07月30日 Posted by けま at 09:58Comments(0)新庁舎建設

裁判傍聴に行ってきた 2

原告(加藤さん)の弁護士でありながら原告に不利な状況を導き出す悪徳弁護士!
まさか被告側(新城市)の息のかかった輩では?
一体いくら積まれたんだ!

などというのは三文小説でもあり得ない陳腐な設定で、やはり弁護士足る者依頼者に有利な判決を得るべく職務に全力を尽くすのは疑いない。
となればあの加藤さんへの尋問も、あのように“見せる”必要があったのだと考える方が筋が通るのではないか?

考えてみれば判決を下すのは裁判官で、弁護士が依頼者の希望に沿った判決を下してもらうためには、その裁判官に「ウチの依頼者に有利な判決をしてくださいよ!」とアピールをしなくてはならないのではないか?

私たちは尋問場面を傍聴、というか傍観しているだけの存在で、尋問している弁護士にとっては何の配慮もする必要がない。
私たち、つまりこのブログを書いているけまがあの尋問にどういう感想を持とうが関係なくて、裁判官がどのように思ってくれるかが弁護士にとっては一番の関心事なのだと思うのだ。

などと考えると、あの尋問にもまた別な面が見えてくるような・・・・。

前のブログでも書いた「調査をした時には長屋は実在したのか?」という弁護士の質問。
この質問に私は、
 → 「加藤さんが調査を始めた時には長屋は存在していなかったはずなのに、なぜそんな詳しい調査ができたのか?」とでも言いたげな痛いトコロをつく質問

という感想を持ったのだが、これは、
 → 「補償の対象である物件(長屋)がすでに無くなっているにも関わらず、隣近所への地道な聞き込み、物件の持ち主の母親の状況の調査など、粘り強く真実を明らかにするための努力を惜しまなかった」ともアピールできる質問

とも捉えることができるような・・。


さらには、確信は無いのに議会で質問したことやコンサルタントを訪問したことに対して「ホントに悪いコトしていたわけでもないのに疑ってかかっていたってことだよね?」とでも言いたげな質問を重ねたことも、

 → 「少しの疑念であっても、こと市民の税金に関することであれば、市民に負託を受けた議員として疑念がゼロになるまでとことん職務を全うする姿勢」をアピールできるような答えを導き出すような質問を重ねていた

とも捉えることができるような・・(笑。

そして最後には、加藤さんはコンサルタントに関係する人物の使用していたパソコンのバックアップデータから重要な証拠「甲9号証」を発見するに至った。
この「甲9号証」、パソコン内のデータはすでに消去されていたが、パソコンを使用する人たちに共通するバックアップデータが残っていたため、それをしらみつぶしに調査して発見したのだと言う。
面倒な作業だったろうによくもやったものだと、その努力労苦に脱帽してしまう。

こんな風に書くと、前とは逆に「真実を探し当てるために不断の努力を惜しまなかった加藤氏!」みたいな印象を持ってしまいますなぁ(笑。

こんなことをアピールすべく、原告弁護士さんはあのような厳しい感じの質問を“敢えて”行っていたのだろうか?つまり裁判官の前でのパフォーマンスとして。
それとも、元々ああいう言い方で尋問するのがあの弁護士さんのスタイルなのか。

先にも書いた通り私は傍聴していただけなので、弁護士さんのあの尋問の本当の意図はわからないし、あの尋問に裁判官がどういう印象を持ったのかもわからない。
加藤さんへの尋問は午前中に終了して、午後からは市役所側から出廷した2人への尋問があった。
こちらの尋問の感想もまた書きたいと思うが、全体を通しての感想は新城市側にムリがあるような感じだ。

加藤さん側の弁護士の厳しいパフォーマンスが、裁判官に良い心証を与えたであろうことを期待したい。  

2018年07月29日 Posted by けま at 03:36Comments(0)新庁舎建設

裁判傍聴に行ってきた

お誘いを受けて7月18日、名古屋地裁での裁判傍聴に行ってきた。

この話を聞かせてもらった時には現新城市長も法廷に立つとのことで、いつも自信満々で弁の立つ彼が一体どう尋問に答えるのかものすごく興味が湧き、二つ返事で同行させてもらうことに決めた。

・・・のだが、生憎市長は公務のために今回は欠席とのことで当初の野次馬的な目論見はハズレてしまった(笑。
しかし生まれて初めての裁判傍聴は良い経験・勉強になった。
名古屋地裁地下の食堂は安くてウマかった。


この日の詳しいことや正確な情報は白井さんの「白井みちひろ後援会公式ブログ」で紹介されているので、ぜひ読んでみてください。
 → 裁判傍聴記「新城市役所は大丈夫?」
私の方では以前この件について書いてはいるものの新聞記事以上の情報は知り得ていないので、かなり個人的な印象・感想を書いてみたいと思う。
 →9月28日朝刊の記事
 →9月28日朝刊の記事 2
 →事実と全容

最初に中央の証言台に立ったのは、この裁判を訴えた側(原告)の加藤元市議。
私のいる傍聴席から見て左側の席にいる弁護士から加藤市議への尋問が始まった。
弁護士は立って尋問を行う。
証言台に座る加藤さんの左側すぐそばに立ち、上から見下ろすような形でいろいろ聞く。
上から見下ろす形はかなり高圧的な印象を受ける。これは人前で話すことに慣れた加藤元市議でさえもかなりプレッシャーを感ずるのではないかと心配してしまう。

さて案の定というか、この尋問がなかなか厳しい口調・印象を受けるモノで、特に出来事の日にちを詳細に尋ねるものだから加藤さんもなかなか思い出せないようで苦労していた。
傍聴しながら印象に残ったのはこちらの弁護士の言い放った「この甲9号証(“証”で合ってるかわからない)が一番大事なんだ!」(バンッ!っと書類を叩きつける音)
・・・いや、実際こんな書類を叩きつけるようなことはしなかったのだけどw、それくらいの激しさを感じさせる勢いで加藤さんに迫っている印象を受けた。

そんなものだから、私はてっきりこの弁護士が訴えられた側(新城市=被告)の弁護士だと思い、
「さすが敵側の弁護士、なかなか好戦的だ。加藤さんもタジタジだ。」
などと思っていたのだが、実はこの弁護士が加藤さん側の弁護士なのだと後から知ったw

それにしても加藤さんを弁護する側、すなわち味方と言っていい人なのに、なぜこんな激しい感じで迫ったのだろうか?

そのことを書く前に色々と説明しておこう。

先ほど書いた「甲9号証」というのはこの裁判で用いられていた言葉で、最初は何を指しているのかわからなかったが、どうもコンサルタントの報告書を指しているらしいことが傍聴していてわかった。
もうひとつ「乙15号証」という言葉も出てきていて、これも同じくコンサルタントの報告書を指しているらしいこともわかった。

コンサルタント、と言われてもこの事件を知らないと「なんのことやら?」でしょうな。
この事件は簡単に書くと、
1・新城市がとある用地の移転補償の適不適の調査をコンサルタントに依頼した。
2・その報告書が実は2種類存在していて、最初に提出されたモノは「補償に適さない」、その後提出されたモノは「補償に適する」と報告されていた。
3・新城市は後から提出された「適する」報告書に従って用地補償を行った。

こんな感じだ。
つまり、なぜ後から提出された報告書を新城市は採用したのか。最初の報告では不適だったじゃないか、なぜだ?おかしいじゃないか? というのが原告加藤さんの主張だ。

で、先ほどの「甲9号証」=「適さない」報告書 「乙15号証」=「適する」報告書 と対応している。

新城市は「乙15号証」を元に用地補償を行ったことになる。
そして加藤さんは「甲9号証」という報告書を後に発見して、それを証拠として新城市の用地補償のおかしさを訴えたわけなのだな。


加藤さんの弁護士の尋問ではこの「甲9号証」が“何時(いつ)”発見されたのか? を、質問を重ねて特定していく流れであったように思う。

傍聴したものをメモったものなので日付を聞き間違えているかもしれないけれども、

平成24年2月 コンサルタントが調査を行う
平成24年6月 報告書(乙15号証)提出
平成27年3月31日 用地賠償でその対象になった「長屋」はこの日までには壊されていた。

平成27年6月 太田さんから資料の調査依頼を受けた ※ここで加藤さんは用地賠償の不自然さに気づく
平成28年3月 加藤さんが用地賠償の件を議会で質問
平成28年5月 調査のためコンサルタントを訪問
平成28年6月 「甲9号証」を発見

以上のことが尋問から確認された。

日付の確認の途中途中ではこれらの事柄の内容や関係することについても弁護士から尋問された。
例えば、「平成28年5月 調査のためコンサルタントを訪問」。
これは加藤さんが用地賠償の実態を独自に調査したうちのひとつなのだが、そういった調査の内のひとつに「長屋には生活実態がなかったことを突き止めた」ものがあった。

このことについても弁護士は、「調査をした時には長屋は実在したのか?」という質問をした。

加藤さんは決してウソをついていたわけではないのだが、口ぶりからは長屋に踏み込んでその実態を調べた、という印象を受けるモノだったのは確かだった。
つまり「加藤さんが調査を始めた時には長屋は存在していなかったはずなのに、なぜそんな詳しい調査ができたのか?」とでも言いたげな質問なのだ。
(上の時系列を見ればわかるように、加藤さんが調査依頼を受けた時(平成27年6月)にはもう長屋は壊されていた)

味方なのに、やたら痛いトコロを突いてくるのだ。

実際は確かに長屋本体を調べたことはないのだけれども、隣近所からの聞き込みや、その長屋に将来的に住むと言われていた長屋の持ち主の母親が実は養護施設に入っていて到底住むことはできない状態であることを、実際に養護施設まで足を運ぶなどして詳しい調査を行っている。
そして「長屋に生活実態がない」という重要な情報はことを加藤さんは突きとめているのだけどね。

加藤さんが用地賠償のおかしさを“確信”するに至ったのは「甲9号証」の発見だったのだが、これについてもいやらしく尋問している。

例えば平成28年3月での議会での質問でも、用地補償のおかしさを“確信”して質問したわけではないし、平成28年5月にコンサルを訪問した時も、用地補償のおかしさを“確信”していたわけではなかった。
というようなことを弁護士の質問から導かれ答えさせられていた感じだ。

この「確信していたわけではないんですね?」という感じの弁護士の言い方がまたいやらしい感じで、「ホントに悪いコトしていたわけでもないのに疑ってかかっていたってことだよね?」とでも言いたげな感じなのだ。

この弁護士が加藤さん側の人とは知らずに傍聴していた私は、

 「うわー、敵の弁護士の巧妙なことよ。まるで加藤さんが悪人だよ。」

などと気が気ではなかったのだ、この時、マジで。


で、尋問というのはこの後、「これで終わります」みたいな感じで、割とあっさり終わる。
「すなわちこの人が悪いんです!」的な決めつける言葉を言う事なく結構唐突な感じで終わるのだ。


この後の弁護士、つまり新城市側(被告)の弁護士の方はこんな感じの鋭い迫り方をしない感じで、実はよくメモを取っていなくて、なんて言ったかよく覚えていない。

あらら、加藤さん不利なんじゃないの、なんて思っていたら先に書いた通り、最初に尋問した弁護士が加藤さんの弁護士だったと知った。
となると、ますます疑問が膨らむ。
あの加藤さんを不利に印象付けるような尋問はなんだったのか?
そう感じてしまう私は素人なのか・・・(もちろん素人なんだけどw)?

長くなったので続く。  

2018年07月26日 Posted by けま at 05:07Comments(0)新庁舎建設

新城市議会に期待したいこと (山崎市議、交付金不適切申請の件 9)

前回の記事の最後に「誰か?」と書いた。
私は「市議会だろう」と思っている。

この件に関しては、事業を行うに際して必要な書類などは市に提出されていることを考えれば、一番調査しやすい環境にあるのは市だと思う。
「平成30年4月記者懇談会資料」で公表された事以外でも、多くの事実を握っているのが市だと考えていいと思う。

ではその調査結果や事実をもとに市が山崎議員個人に対して、公式にあるいは公的に質問したり何らかの処分を求めることができるだろうか?
一応「5千円」多く交付金をせしめたコトに関して公的に訴えることはできるのかもしれないけれど、それでは市が直接山崎議員個人に何かモノ申すという事にはならない。
事件に対して一番多くの事を掴んでいるであろう市が、山崎議員個人に何も言えないし何もできないでいることが何だか滑稽な感じだ。


新聞記事でも書かれていたが、市民グループ「新城市政を考える会」が市議会議長に政治倫理基準違反審査を請求した。

これは住民投票の頃や打桐元市議の市水道工事受注の件の時に話題になった「政倫審」のことだ。
この頃は市議会議員からの請求で政倫審が行われていたが、市民の署名を集めることによっても審査の請求ができることは知らなかった。

新城市議会議員政治倫理条例 → (http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/7,31068,c,html/31068/20130326-135331.pdf
これの第5条(審査の請求)をご覧あれ。

市(行政)が何もできないでいる以上、市民の手による山崎議員個人への責任追及としては、確かにこの手しかないだろうと思われる。

私のブログみたいに市民個人が「山崎議員に対して責任云々を問う!」とか言って喚くことはできるけれども、それは所詮独り言(笑。
やはり公式・公的に責任を問うなら、法律や条令に従って然るべき手順に沿わなければならない。
今のところまだ請求が受理された(されたよね?)だけで、審査会が設置されたというようなニュースは聞いていないけれども、請求通りになってほしいと思う。

しかしこの政倫審、過去一度山崎議員もその対象になっているけれども屁理屈こねて審査会の出席要請に応じなかった。
打桐元市議も審査会の結果報告をよく理解せずに「私は悪いことしてないです。」とか言い放ったり。
どうも政倫審に本来求められていることがうまく機能しないようで、その点が心配だ。

ただ、「悪いことがありました(具体的な事柄を挙げず)」→「謝罪します」ハイおしまい。

これではこの前の議会で謝罪したのと変わらない。
審査の過程で事件の事実が解明公表されれば、それだけさえしっかりやってほしい。

そう、つまり政倫審という公的な市議会の手によって、公式に『 事件の全事実が解明公表 』されることが一番望ましいことなのだ。
その過程では当然山崎議員個人の名前は出てくるし、団体が悪いことをしたのか、山崎議員個人が悪いことをしたのかが明白になる。

そう言う意味で政倫審に期待したい。

そしてさらに要望したいことは、市議会でこの件の特別な調査チーム・または委員会を立ち上げて、市議会の主体的な動きによって所属する市議の不義を雪ぎ、市議会の品位・名誉を挽回してほしい。

市民の請求による政倫審立ち上げでは結局外部からの圧力で動いたことになり、市議会自らの自浄作用などは無いことになる。
果たしてそれでよいのか。

聞けば、議会でなされたことは市議会議員の前でなされたことであり、市議会議員は選挙によって選ばれた市民の代表なる立場であるのだから、議会でなされたことは市民の前でなされた事と同じである、とかいう3段論法をとある市議が言ったらしい。

それならば、所属議員のやった悪いことを自ら質し真実を明らかにすることを市議会議員はやらなくては。
政治倫理基準違反審査を請求できるだけの市民による署名が現実に集まったのだから。
「山崎議員のしたことを明らかにしてほしい」、これが市民の声なのだ。
その市民の声は、市民を具体化している存在の市議会議員の声でなくてはならないだろう、さっきの3段論法でいけば。

今回の件、市議会が自ら動いて事実を明らかにしないといけないと思うよ。  

2018年05月07日 Posted by けま at 11:05Comments(0)山崎市議交付金不適切申請

山崎市議、交付金不適切申請の件 8

「平成30年4月記者懇談会資料」の中に前回の新聞記事の元になった資料がある。
http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/7,56829,c,html/56829/20180424-144445.pdf

その元になった資料の内の「新城市地域活動交付金決定取消通知書」という堅苦しい名前の書類に、今回の件で交付金が全額返還となった理由が書いてある。

「意図的な虚偽の外観の作出による交付金の受領は信義則に反し、」という部分。

これが「虚偽の領収書を作成したことがいけない事だ」と言っている部分だ。
そして虚偽の領収書は山崎議員が自ら作成したことを認めている。
なので「山崎議員のしたことが信義則に反しているのだ」と市の公式な文書で述べられていると見ていいだろう。

とはいえ、やはり「山崎議員」の個人名が明確に書かれているわけではない。以上のような3段論法で導かれることを考えれば、「山崎議員が」なんて書いてないじゃないか、と反論されるとちょっと弱い部分だ。

そして通知書の冒頭にも宛先として団体名、その代表者の名前があることから、交付金の取消を受けたのは団体と言えるし、交付金を返還するのも団体であると言えるだろう。
やはり山崎議員が個人として交付金の返還に応じなければならない、とも言いきれない。

今回の件、新聞記事を素朴に読めば、委託業者に支払う代金を団体が横取りしたわけではない。
団体は請求どおり委託業者に支払った(ようだ)。
ただその支払代金=交付金を受領するときに虚偽の領収書を作成してしまった、というワケで、「委託業者に代金を期限までに支払わなければ」という誠意が根本にあったとは言えないだろうか。
やってしまったことは悪いことだが悪意はない、と、私には思えてならない。
別に山崎議員の肩を持つわけではなく、団体の気持ちを考えると、と言う意味。

なので、市の求める「全額返還」が、罰としてはかなり重すぎないか?と感じるのだ。

ここで前回の記事で言及した「一罰百戒」の意味を考えてみる。

広辞苑での意味をそのまま書くと、「一人を罰して、多くの人の戒めとすること。」
そう、「一人」なのだ。「一つ」ではなく。

ここは想像でしかないけれども、今回の件を個人の罪や悪に還元するための法律・条令が無いのではないか。
つまり、『 虚偽の領収書を作成したのは山崎議員 』、ここまでしか法律や条令の上では指摘できない。
本当は虚偽の領収書を作成した本人に全額返還をさせたいのだけれども、それを可能にする法律・条令がない。
そこで「一罰百戒」。
山崎議員ひとりに全額返還を求め(一罰)、他団体への見せしめ・戒め(百戒)のための生贄になってもらおう、という穂積市長の暗喩があるのではなかろうか。
かなりの妄想だなw

自分でもかなり飛躍した妄想だと思うけれども、書いていて気づいた。

虚偽の領収書作成の張本人は山崎議員個人と特定できるけれども、その虚偽の領収書作成を罰するには団体を罰するほかないということ、だ。
だから「全額返還」という罰を受けるのは団体になってしまい、表向き悪いことをしたのは団体だ、という風に見えてしまう。
山崎議員のやった悪いことが消えてしまう・見えなくなってしまうのだ。

このまま全額返還がなされれば、新聞記事的には「団体、全額返還で一件落着」という見出しになるでしょ?
市民は「ああ、悪いコトした団体がお金払って償ったんだな」と理解するだろう。
それでいいのか?

この消えてしまう、見えなくなってしまう、山崎議員が直接手を下した虚偽の領収書作成を可視化しなければいけないのではないか。

その可視化作業をするのに一番ふさわしいのは誰か。  

2018年05月02日 Posted by けま at 01:34Comments(0)山崎市議交付金不適切申請